聖書のみことば
2022年1月
  1月2日 1月9日 1月16日 1月23日 1月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月23日主日礼拝音声

 愛の人
2022年1月第4主日礼拝 1月23日 
 
宍戸 達教師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第10章25〜37節

<25節>すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」<26節>イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、<27節>彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」<28節>イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」<29節>しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。<30節>イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。<31節>ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。<32節>同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。<33節>ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、<34節>近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。<35節>そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』<36節>さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」<37節>律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 ただいま、ルカによる福音書10章25節からの箇所をお読みいただきました。ここでは「愛」について語られています。
 愛についての話と言われますと、それはきっと私たちの心に響く麗しいエピソードであろうと期待されます。けれども、主イエスが取り上げられるのは深刻な状況です。私たちの愛という問題は、むしろいつも複雑で厳しい生活事情の中で問題となるのをよく知っておられたのです。この時の様子をもう一度考えてみます。

 まず30節に、「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った」とあります。エルサレムからエリコまでは、おおよそ27kmです。従って普通に歩いて6、7時間の道のりです。その間、道筋にはこれと言えるような集落はほとんどありません。ときたま小さな宿屋がぽつんと建っているだけです。したがって、その道は強盗や追いはぎが活躍するには格好の場所です。この旅人はその餌食となりました。
 ここでは、「追いはぎ」は複数形で書かれています。ですから、追いはぎは少なくとも二人以上、何人かのグループであったということになります。旅人は携えていた持ち物を皆奪い取られ、着ている服も剥ぎ取られ、懸命に抵抗したでしょうが、多勢に無勢、殴る蹴るなどされて傷を負い、息も絶え絶えに地面に倒れ伏します。その有様はほとんど死んだのと同然で、自分の方から進んで助けを求めることさえできません。
 すると、そこにたまたま一人の祭司が通りかかりました。31節に「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。その祭司は「道を下って来た」と書かれています。エルサレムの方がエリコより少し高台になっています。それに何と言っても、エルサレムはその地方の中心都市です。それで、そこへ行くのは「上る」であり、そこから帰るのは「下る」です。祭司は道を下ってきました。おそらくエルサレム神殿での務めを終えて家に帰る途中であったのです。エリコはその頃、祭司たちの多くが住んでいた土地でした。仕事を終えて自分の家に戻る道すがら、この祭司は路上に倒れうつ伏せになっている一人の同胞を見つけます。ところがどうした訳なのか、祭司はその倒れている同胞には少しも手を触れずに、むしろそれを避けるかのようにして、その場所を通り過ぎて行きました。
 そして、次にやって来たレビ人も同じように行動しました。32節に「同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。レビ人というのは祭司の下働きの役目を担っている人たちです。このレビ人もまた、倒れている同胞を見つけましたが、それを見ても見ないふりをしてその場から遠ざかりました。
 ところが、3番目にやってきたサマリア人は違っていました。このサマリア人は倒れている旅人に近づき、彼を抱き起こし、傷口をぶどう酒で洗って消毒し、さらにそこに痛み止めのオリーブ油を塗り、ありあわせの頭巾か下着を裂いて即席の包帯を作り、それで傷口を押さえ、自分が乗ってきたろばに乗せて、行き着けの宿屋に連れて行き、介抱しました。まるで手慣れた看護師のようです。一晩付きっきりで看護した末、幾分か容態が持ち直したらしいのを見て、後を宿屋の主人に頼み、決まっていた用事に出かけます。出がけにその怪我人の看護の費用を先払いし、不足分は後日支払うからと約束して旅立ちました。33節から35節に「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」とあります。

 この物語を読んで、私たちはまず瀕死の怪我人を巡る人々の動きに注目させられます。ここには祭司とレビ人と、そしてサマリア人が現れています。前の二人は、瀕死の怪我人を見ても彼に指一本触れずに立ち去りました。この様子を見て、二人の態度に憤慨しない人はいないでしょう。「何と情け知らずで冷酷な人たちだろう」と思うでしょう。「人間の風上に置けない連中だ」と怒る人がいるかもしれません。確かにその通りです。それについては、反対する人はほとんどいないだろうと思います。
 けれども、考えてみたいのです。私たち人間の実際の生活は、そういう私たちの素朴な怒りがそのまま通る社会なのでしょうか。私たち人間の世界は「白を白、黒を黒」と言ったなら、いつでもその通りにまかり通る社会なのでしょうか。むしろ私たちは、この社会が私たちの正義感を揺るがすような事情に満ちているということをいつも経験させられているのではないでしょうか。
 一瞬の緊急事態には、他の人を押しのけてでも自分の身の安全を図らなくてはならない、そういう場合は決してないとは言えません。自分自身の社会的身分や地位を保つためには、不本意ながらある類の社会の規則や風習に従わなくてならない場合もあります。そういうことを考えると、私たちはこの物語に出てくる祭司やレビ人を一概に悪く言えません。場所が場所です。もしも仮にこの怪我人に関わっている場合は、今度はこの人と同じ悲惨な運命が自分の上に降りかかるかもしれません。その場にいたずらに愚図愚図しているなら、自分自身の身に危険を招くかもしれません。
 それだけではありません。祭司やレビ人のようにエルサレム神殿の仕事に関わっている人たちは、死人に触れるということを禁じられていました。この怪我人は半殺しの状態であったと書かれています。それならこの怪我人を介抱しているその最中に、この人が死ぬようなことになれば、祭司やレビ人たちはその社会的身分や地位を失う原因を作り出すことになります。そうなれば、彼らの家族の生活すら成り立たなくなります。そのようなさまざまな事情から、祭司とレビ人はこの瀕死の怪我人を避けて通ったのだと考えられます。
 そうだとするなら、それでもなお私たちは、この二人の人たちを非難できるでしょうか。果たして私たちは、この二人が置かれたような立場に自分は決して置かれることがないと言い切れるでしょうか。むしろこの二人は、私たち人間のごく普通の姿を示していると言った方が良いのではないでしょうか。そしてそれだけに、もう一人の人、サマリア人の取った行動が殊の外、印象深く思えてくるのです。

 このサマリア人の行動は、普通に私たちが考えるのとはまるで違っています。この人はサマリア人です。この言葉は大きな意味を持っています。サマリア人もユダヤ人の一族には違いありませんが、サマリア人一族の歴史はユダヤ民族の純粋さを失わせるような出来事に満ちていました。したがってサマリア人は、生粋のユダヤ人仲間からは除け者にされ、憎しみの的とされています。
 そのサマリア人が、瀕死のユダヤ人を介抱しているのです。本来なら、祭司やレビ人以上に、サマリア人こそ怪我人を見捨てて当然です。ところがこのサマリア人は、敢えて瀕死の状態のユダヤ人に近づきます。そうすることで、このサマリア人は既に、自分たちと誇り高い生粋のユダヤ人との間にある隔ての垣根を乗り越えています。
 それだけではありません。このサマリア人には、ひょっとすると祭司やレビ人と同じように、追いはぎや強盗の餌食となる危険がありました。むしろ、ろばに乗りその道を度々行き来しているらしい様子から、このサマリア人は商人だったのではないかと推測されます。それなら祭司やレビ人以上に、このサマリア人には危険が大きいと言わなくてはなりません。
 ところがこのサマリア人が、怪我をしている人の身の上を思い、この人を介抱しなくてはならないという気持ちから、身の危険におののく心を乗り越えています。このサマリア人は瀕死の怪我人に心を注ぐあまり、自分と彼との立場の違いを乗り越え、さらに自分の身を危険に晒すという恐れをも乗り越えています。

 私たちは、このサマリア人のとった行動の気高さに心を打たれます。そして次の瞬間に、「果たして、このサマリア人のような人が実際にいるだろうか」と疑わしくなります。それは当然です。このサマリア人というのは、ひとつの物語の中に登場する人物ですから、このような人が果たして私たちの世界に実在するかどうかとなりますと、それは甚だ疑問です。
 それでも、このたとえ話を聞かされているうちに、私たちはこのサマリア人の中に、ある一人の方のお姿の影を認めずにいられなくなるのではないでしょうか。もちろん主イエスは、その語られる話を通してご自分のことを言っておられるのではありません。そうではありませんが、それでもやはり、私たちは、主イエスその方を思い出さずにいられません。
 この話を聞かせてくださっている主イエスは、まさにご本人が完全に神の側におられるような方でした。完全に罪を犯さずにいる、そのようなお方でした。それであるのに、主イエスは神に背を向けて生きる私たち、つまり罪を犯さないでは生きられない私たちをそういう事情の中から救い出すために、罪を犯さずにいるその清らかな立場を乗り越えて、私たちに近寄って来られました。そして実際に、ご自分の身に及ぶ危険があるのにその危険をも顧みないで、最後には文字どおり罪を犯さない清らかなご自分の命を犠牲になさり、私たちに代わって私たちの罪のすべてを贖い、そのようにして、神の御前に私たちが近づくことができるようにしてくださいました。つまり救いの御業を成し遂げてくださいました。主イエスという方は、そのようなお方です。
 ですから私たちは、このサマリア人の話を聞かされると、どうしても、この話をしてくださっている主イエスのお姿の影を思い出さずにいられないのです。主イエスはこのサマリア人そのままに、罪の中に失われている私たちに近寄り、親しく私たちに御手を差し伸べ、私たちを神との永遠の交わりの中に引き上げてくださいました。

 しかし今日の聖書は、このサマリア人を通して主イエスを思い出させるだけではありません。それとともに、大事なことを聞かせてくれます。
 今、「主イエスは私たちをその失われている状態から救い出してくださった」と申しました。けれども、それなら私たちが失われている状態というのは、はっきり言ってどういう状態のことなのでしょうか。その点を考えたいのです。
 そこで私たちは、この物語が語られるに至ったきっかけになっている箇所に注目したいのです。25節から29節に「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた。『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」とあります。
 律法の専門家は「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねています。律法の専門家は、誰か心ある人に対して善意を尽くそうと思っています。そして私たちもまた同じです。
 けれども、ここで私たちははっきりと確認しなくてはなりません。私たちがそのように取り澄まして、「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねていることが、私たちが失われた状態にあることなのだということです。なぜなら、そのように私たちの心に触れる人々だけを自分の隣人とするということは、裏を返せば、そうでない人々、つまり自分の気持ちに沿わない人々はこれを除け者にするということだからです。自分にとって為になる人々には善意と愛を傾けるけれども、それ以外の人々にはそうしないということに他ならないからです。
 この律法の専門家をはじめ、私たちは皆そういう生活態度を持っています。この物語の初めに出てくる祭司やレビ人もそうです。

 ところが、私たちがそのように問うとき、逆に主イエスは、私たちに問い返して来られます。36節に「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とあります。つまり主イエスは、物語のうちにある人を中心にして、それが誰であろうとも、そのような境遇にある人々にとって隣人となることを求めておられるのです。私たちは、「自分にとって、隣人とはだれか」と問うのではなく、自分の方から真の隣人にならなくてはならない。そうでなければ、私たちにとって隣人などは与えられないのだということを気付かされます。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で次のように語っています。第5章8節に「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあります。そして、そのようにして私たちは神と和解させていただいたと語ります。
 私たちは、このサマリア人の物語を聞かされて、そのことを思い起こしたいのです。さらにそれによって、私たちも、主イエスのお姿にならって生きる志を励まされたいのです。それがまさに、私たちが「救いに与からされて生きる」ということなのです。祈ります。

 聖なる御神、今日の日曜日、私たち、再び御許に立ち戻ることを許されました。御神が御子イエスを通して聴かせてくださる御言葉を賜るためです。それで私たち、今確かに今日聴くべき御言葉に接することができました。御神がそのように取り計らってくださったのです。感謝いたします。どうぞ、今日から始まる新しい日々、御心を聴かされた者にふさわしい生活を過ごさせてください。私たちの周りのお一人一人に、真の隣人を見いだし、彼らとの間にやわらぎの生活を増し加ええさせてください。そのことによって、この一週間を通して、御神の栄光を誉め讃えさせてください。このお願い、私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

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